
「かけがえのない出会いで、今がある」
NHK名古屋放送局
コンテンツセンター 記者
松岡 康子(平成2年卒)
コンテンツセンター ディレクター
徳田 周子(平成17年卒)
NHK 日本放送協会HP
https://www.nhk.or.jp/
NHK名古屋放送局HP https://www.nhk.or.jp/nagoya/
日本放送協会(NHK)といえば、1925年(大正14年)3月に日本初のラジオ放送を開始、1953年(昭和28年)2月には総合テレビ放送(日本初のテレビ放送)を開始、そして今年2025年(令和7年)放送100年を迎えました。滝学園の卒業生でNHKに入局した松岡康子さん(平成2年卒)と徳田周子さん(平成17年卒)のお二人が、現在、名古屋放送局に勤務されているということで、同局を訪ねお話を聞きました。
現在、名古屋放送局でお仕事されていますが、どんなお仕事をされていますでしょうか。また、NHK入局以来どんなお仕事に携われたのかお聞かせください。
【松岡康子】
1995年にNHKに入局しました。最初の赴任地は静岡でした。その後、豊橋、名古屋、東京、そして今名古屋に戻っています。この30年間、ずっと記者として勤務してきました。事件や事故、災害、行政、何でも取材してきましたが、特に多く取材してきたのは、医療分野です。文系だった私が医療に興味を持ったのは、豊橋支局の時(1998年ごろ)。待合室にこたつがあるような、旧作手村(現 新城市)の診療所に、科学的根拠、最新のデータに基づいた医療を実践している医師がいると知り取材しました。初任地の静岡の時に医療分野に詳しい上司がいたので相談すると、「その先生は過疎地にいながら最先端の医療を実践しているんだよ」と言われ、アドバイスを受けながら特集にしたのです。
その後1999年、名古屋放送局に異動。臓器移植の分野を担当してほしいと言われました。1997年に施行された臓器移植法により、脳死段階での臓器提供が可能になったので、「脳死判定が開始された」とか、「臓器提供が始まる」という一報をキャッチするのが私の最優先の仕事になりました。愛知県内で臓器提供病院に指定されていた病院の救急科や脳外科、集中治療科など臓器移植に関わる先生を毎日のように回りました。そうしているうちに、先生たちとつながり、親しくなり、臓器移植以外のニュースの取材もしながら、医療について一つ一つ学んでいくことができました。そして実際に、藤田保健衛生大学病院(現 藤田医科大学病院)で4例目の脳死判定が始まり、テレビ各社は病院に中継車を出してその経過を伝えていきました。そんな中で、その臓器提供者が交通事故により脳死状態になった方で、片方の耳の鼓膜が破れていたため、脳死判定の項目の1つで、耳の中に水を入れて反応を見る検査ができませんでした。マニュアル通りに判定ができないために、脳死判定は途中で中止。私はその情報を夜中にキャッチして、発表前に朝の全国ニュースで放送することができました。これが医療担当になっていった大まかな経緯です。その後、東京の科学文化部で7年間医療を担当し、その後新たにできた生活情報部(現在は廃止)で5年間、子育てをしながら、医療、介護、子育ての分野などを担当しました。そして2013年、名古屋に戻ってきたのです。新型コロナが流行った時もずっと医療現場や介護現場、保健所などの状況を取材していました。名古屋に戻って12年になりますが、医療関連のニュースを中心に取材を続けています。少し前ですが、滝中学校の坂野貴宏先生の次女春香さんが悪性の脳腫瘍で亡くなられたことを題材にした映画『春の香り』(2025年3月)が公開されたので、夕方のニュースで7分ほどの特集にして、映画に込められた思いを取り上げさせていただきました。
記者という仕事にたまたま就いた私ですが、結果的には1日でも長く続けたいと思うほど大好きな仕事で、やりがいを感じています。記者の醍醐味は「さまざまな人と出会い、話を聞くことができること」「自分が感動したり共感したりしたことを広く伝えることができること」「今まさに問題になっていること、社会の課題を取材し問題提起できること」「何歳になっても新しいことを学び、視野を広げることができること」などがあると考えています。
毎日毎日取材する内容が違うので、刺激があって、この仕事に飽きることはありません。今も戦後80年の番組制作に関わっていて、太平洋戦争中、中学生や高校生だった子どもたちがどのように軍需工場に動員され空襲の犠牲となったのか、90代半ばから後半になる当事者たちの証言や日記、絵をもとに取材しています。そんな方たちの話を聞けること、聞いた話を次の世代に伝られることも、記者だからこそできるのだと思っています。取材では、取材相手と丁寧に信頼関係を築くことを心掛けています。取材を受けてもらえるのは当たり前ではなく、特につらい体験をされた方を取材するときには、覚悟をもって応じてくださる人の思いをしっかり受け止め、無駄にしないようにと思っています。「松岡さんだから話した」「松岡さんに取材してもらえてよかった」と思ってもらえるような記者でいたいですね。
【徳田周子】
2011年にNHKに入局し、初任地は大阪放送局でした。私は幼い時から生き物が好きで、大学でも分子生物学を専攻していました。NHKではその経験を生かして科学番組を作りたいと考えていたのですが、大阪放送局には科学番組の枠はありませんでしたので、最初の担当は10代向けの生放送の情報番組『あほやねん!すきやねん!』でした。若い人たちに寛いで観てもらう情報バラエティー番組なので、芸人さんと一緒に専門学校を取材して楽しく紹介したり、自分のバックグラウンドを生かし、大学の研究室を訪ねて理系学生の生活を垣間見る「突撃!ブラボーラボ」というコーナーを立ち上げたりして、高校生の進路選択に役立ててもらおうという番組を作っていました。また、大阪府内の高校ラグビー部や和太鼓部に密着したドキュメンタリーなども作りました。そうしているうちに、科学に限らず、人に会って話を聞くことが面白く、楽しくなって、ジャンルは関係ないのだと、あらゆる分野に関心をもって番組作りをしました。
2016年に東京に異動となり、最初は『所さん!大変ですよ』という、所ジョージさんの番組の担当に。ちょっとひねった目線から、今の日本の社会を見ていくという番組でした。例えば「ぼっち鳥居」、これは“ひとりぼっちの鳥居”という意味の、番組で作った造語なんですが、時々、神社ではない土地にぽつんと鳥居だけが立っている場所ってあるじゃないですか。なぜそうなったのか?を調べていくと、日本のいろんな歴史が見えてきます…というような話題とか、あるいは、ある地域のみかん農家さんが近年、畑のみかんを次々アボカドに植え替えています。いったいなぜ…?というような話題など。鳥居とかみかんとかアボカドといった、暮らしの中の身近な存在を深堀りするとその先に「日本ってこうなりつつあるんだ」ということがわかる、という取材のプロセスが楽しかったです。その番組を10本ほど作ってから、朝の情報番組『あさイチ』の担当になりました。『あさイチ』は30~50代くらいの女性をメインの視聴者として想定していて、その人たちに興味を持ってもらえるのであれば何をやってもいいですよ、という柔軟な番組です。そこで最初に作ったのが生理特集、「これまでタブーとされていた生理をオープンなものとして扱い、対処法を伝える」というものでした。番組では子宮内膜症や低用量ピルなどの最新情報を、一人でも多くの人に届いてほしいという思いで詰め込みました。学生時代に生物学を勉強したためか、医学の話も“生命のしくみってすごい”と興味深く感じられ、さらに、そうした生物学的な現象、たとえばホルモンの波による体調や気分の変化が、職場や家庭などの社会生活に影響を及ぼす、その狭間のような領域に関心を持ちました。その後は医療系を中心に、他にもPTAやジェンダーギャップ、また、ロシアのウクライナ侵攻についてなど、幅広いテーマの番組を制作しました。どんなテーマのときも、視聴者の方が「自分事として」「楽しく(いつも楽しくというわけにはいきませんが、真剣な話題であっても“観たくなる”ように)」観られる番組にするということを心がけています。

2023年からは名古屋放送局にて、デスクという立場で若手ディレクターのサポートや、局内の調整をしています。ただ、自分で番組を作りたいという意欲はすごくあって、20年ぶりに愛知県に戻ってきて気づいたこの地域の面白さを伝えたいと思い、2本の番組をディレクターとして企画・制作しました。1つは去年5月に『東海ドまんなか!』という情報番組で、渥美半島にある縄文遺跡についての特集。渥美半島は昔から考古学者には有名な場所で、縄文人の骨など重要な発見がたくさんあるんです。愛知で歴史といえば戦国時代以降が有名だけど、実は縄文時代からすごく豊かだったなんて、地元民としては嬉しくないですか?と思い、それを知ってほしくて。2つめは、今年3月放送のラジオドラマ『犬がいた季節』を作りました。同名の小説が原作で、三重県の四日市高校が舞台の実話なのですね。東京をめざすか、地元に残るかで、高校3年生の女の子の気持ちが揺れる、葛藤するっていう話なのです。まさに自分が滝高にいた頃を思い出し、その不安や憧れは、多くの方が懐かしく共感してもらえるかなと思ってドラマ化しました。
こんな感じで、一つ一つの番組を「このメッセージを伝えたい」という思いを込めて、悩みながら作っています。公共放送である以上、自己満足ではなくて、社会に広く届ける価値のあるものでないといけませんので、自分の人生や価値観を見つめ直したりもしながら、毎回格闘しています。視聴者の方からの反響を読んで、メッセージがしっかり届いた!と感じられるときはなによりもうれしく、やりがいを感じます。
NHKに入られたきっかけは。学生のころからマスコミ志望だったのですか。
【松岡康子】
津田塾大学の国際関係学科に通っていた3年生から4年生になるタイミングで1年休学してフィリピン大学に留学しました。留学を終えて帰国した直後に、中華航空機事故が実家近くの名古屋空港で起きたのです。忘れもしない4月26日です。その事故で264人が亡くなり、生存者は7人のみでした。そのうちのひとりが自分と同い年のフィリピン人女性で、小牧市民病院に入院していることが新聞に載ったのですね。留学中、フィリピンで多くの人に親切にしてもらい、お世話になったこともあって、彼女のために何かできないか、力になりたいと思ったのです。病院に母と一緒に行って、最初は面会できないって言われましたが、付き添っていた彼女の親や親戚の方に、少し前までフィリピンに留学していて、タガログ語が話せることなどを話すうちに受け入れてもらえました。彼女の名前はシラニーさんというのですが、日本に3回目の出稼ぎに来たときに事故に遭い、一緒に飛行機に乗っていた友達を亡くし、シラニーさん自身も下半身不随になってしまいました。病室で英語やタガログ語、日本語を交えて話をし、母の手作りの料理や必要なものを運ぶうちに、少しずつですが心を開いてくれました。事故から2週間後にはシラニーさんの誕生日があり、病室でささやかな誕生日会も開きました。そうした活動が、マスコミ各社の耳に入り、取材を受けるようになりました。小牧市民病院には当時、シラニーさんと3才の男の子の2人の生存者が入院していて、その2人の様子を知りたくて、各社の記者が病院に詰めていたのです。取材後「大学4年生なら、これからどうするの?」みたいな話を記者の人たちから聞かれ、「まだ全然何も考えていないし就職活動もしていません」と答えたら、「記者を受けてみたら。記者の仕事に向いているかもしれないよ」と数人の方から言われたのです。物怖じせず、行動力があるというところを見て、そう言われたのかもしれませんが、それで受けてみたら、NHKが受かったっていう感じです。実は記者に向いていると言われたのは初めてではなく、朝日新聞を辞めてフィリピン大学に留学していた小原さんからも言われていました。小原さんとはフィリピン留学中、日本人留学生のボランティア団体を一緒に立ち上げたのです。その代表を私が、事務局長を小原さんで。その団体とはフィリピンの子どもたちとリコーダー、音楽を通して交流しようとするもので、リコーダー集めに滝高校で担任だった長谷川真澄先生に尽力してもらいました。日本では高校生になると、もうリコーダーは不要になり、その不要になったリコーダーを長谷川先生に集めてもらったのです。その活動を一緒にしていた元記者の小原さんが、私に「記者に向いているんじゃないか」と言ってくれていたのです。そう言われても留学中は記者という仕事に全く興味がありませんでしたが。シラニーさんを病院に訪ねてみたら、と最初にアドバイスをくれたのも小原さんでした。記者になりたいと思っていたわけじゃないけれど、中華航空機事故の生存者の支援を通して、記者がどんな仕事かがわかり、勧められて受けてみたということです。今考えると、それはまさしく正解だったと。管理職になるのを断って、現場の記者で居続けることにこだわっていますし、私が楽しそうに仕事をしているのを見て、長男からも「記者の仕事はママの天職だね」と言われています。

記者になるきっかけになった中華航空機事故から今年の4月26日で31年になりました。実は30年目の去年、『事件の涙』というドキュメンタリー番組で、『私はあなたを忘れない 中華航空機事故30年ごしの対話』という番組を制作しました。個人的な思いでつながってきた私が、30年を経て初めて記者としてシラニーさんや当時3才だった生存者に向き合い、事故後の姿を追った番組でした。

【徳田周子】
ディレクターという仕事に憧れたきっかけは、滝中1年の時に滝の講堂で聞いた、卒業生で当時『ためしてガッテン』のディレクターをしていた北折一さん(昭和58年卒業)の講演でした。舞台にあがった北折さんはなんだかフラフラしていて、「緊張しすぎて、新幹線の中でお酒飲んじゃいました」と一言。面白い人だなぁと思いました。その時の講演内容は正直言うと、あまり覚えていないのですが、後日、北折さんから「あの日はまったく話したいことが話せなかったので、手紙として書きました」と両面にびっしり書かれたプリントが配られたのです。私はその内容に感銘を受けて、その後何年も大事に保管していました。その中に書かれてあったことで「英会話スクールにいくお金があったなら、海外に行きましょう」というのがありました。北折さんが留学した際のエピソードで、ホームステイ先のお母さんが、北折さんをキャンプへ連れて行ってあげようと休みを取ろうとしたら、会社の許可が下りなかった。すると彼女はなんと仕事を辞めてしまったという話。『今後、一生会わないかもしれない日本人の学生をキャンプに連れていくために仕事を辞めてしまう…そんな人が世界にはいるのだということを身をもって知るためにも、どんどん海外に行くべきだ』、というようなことが書かれていたと思います。私はそれに単純に影響を受けて、また親の後押しもあり、高校2年の時に1年休学して、イタリアに留学しました。ホストファミリーには本当によくしてもらい、いろんな人との出会いがあり、北折さんの言っていたことがすごく理解できました。なので、入り口としては北折さんという方への憧れから、NHKディレクターという道を考え始めた感じです。
一方で、小さい時から生物学者になりたいという思いも強く、大学3、4年生のころは研究者を目指そうとも考えました。しかし、修士課程を研究室で過ごしてみて、英語の原著論文を沢山読み込み、繊細な実験に黙々と取り組む研究者としての人生は「これは私には無理だな」と、厳しい現実に挫折したのです。そこで、NHK放送センターの北折さん宛に手紙を出し、『ガッテン』の収録を見学させてもらいました。北折さんや、他のディレクターのみなさんにもお話を聞いて、やっぱり楽しそうだなと改めて感じたので、マスコミを数社受けて、なんとか第一志望のNHKに入局できました。
滝学園時代はどんな生徒でしたか。
【松岡康子】
私は高校から滝に入った「外普」なんですね。中学時代、水泳をずっとやっていて、県大会で2位になるくらいだったので、水泳を続けたいと思っていました。公立高校に行くつもりでしたが、私立の滝高校も受けてみるかと軽い気持ちで臨んだら、滝高校に受かってしまった。当時滝高校は水泳部が強かったので、ここでなら水泳を続けながら勉強もできると思って滝高校に入学しました。でも入ってみて分かったのは、水泳部の部員はほとんどが商業科の生徒で、外普は私だけ。それでも水泳と勉強は両立できると頑張ったのですが、1年生の夏に辞めることに。やはり、両立は難しかったですね。1年生はどこかの部活に入らなければいけなかったので、合唱部に入れてもらったのですが、私は、スポーツをやっていないと勉強に集中できないみたいで、スポーツをやらないことがすごくストレスになって、勉強に影響が出できたのです。そんな時、体育の授業で毎回タイムを計りながら学校の外周を走る長距離走があって、商業科含め学年中で1位の成績を収め、それを見た陸上部から誘いがあったのです。駅伝に出られる人が足りないと。それで陸上部に入ったのです。陸上部にはいって、長距離を走っていたのですが、やはり自分は運動をしないと他のことにも集中できないと改めて分かりました。
3年間ずっと長谷川真澄先生が担任で、真澄先生には卒業した後もとてもお世話になりました。フィリピンで子どもたちにリコーダーを教える活動を始めた際に、高校でリコーダーを集めてもらったこと、航空機事故で入院していたシラニーさんを私が訪ねていることを知って、病室に来て笛を演奏してくださったこと、本当に感謝しています。あとは数学の中村康彦先生ですかね。先生はすごく厳しくて、試験内容も難しいし、口も乱暴な感じではあったけれど、愛情をすごく感じていました。わからないところを聞きに職員室を訪ねると、中村先生のところにずらっと生徒が並んでいる。そんな忙しい先生でしたが、いつ行ってもわかりやすく丁寧に教えてくれる。生徒からの質問、大歓迎!といった雰囲気が、滝の良さの1つではないかと思っています。追試、追試の3年間で、走っていたこと以外は勉強漬けの毎日でした。本当に「外普」は大変だったというのが滝高校3年間の正直な感想です。
【徳田周子】
私は滝中では生物部に入っていました。顧問の佐分隆文先生はいろいろ面白いことをやってくれました。突撃隊って言う名前のチームを作って、自然の中に虫や魚を採取に行くのです。定光寺や養老、金華山などに行きました。部室でハムスターを飼ったりもして、私は「カンタ」と名付けていました。中学1年~2年の担任をしてくださった数学の酒向孝芳先生は、私たちの要望に応え、ロングホームルームの時間に講堂を借りきってカラオケ大会をしてくれたことをよく覚えています。酒向先生ともT.M.Revolutionをデュエットしました。国語の杉本寿美代先生は「スカートが短い!」とすぐ仰るので、女子の間では「廊下で杉本先生を見つけたら隠れるべし」が鉄則でした。授業では席順に一人ずつ当てられて、助詞助動詞の活用や百人一首など答えられないと「立っとれ!」、2回目も答えられないと「イスに立っとれ!」と、最後にはクラスのほとんど全員が起立している事態に。ただ、そうしてみっちり教わった尊敬語・謙譲語・丁寧語は今の社会人生活で大変役立っています。

高校に入ってからは、数学の追試が大変だったなあっていう思い出ばかりで。1年に20回ぐらい受けていました。高3の頃、私は東京に行ってみたくて、東大を受けたいと思っていたのですが、家族からは地元の大学の医学部に行ってほしいと。そんな中、担任だった村田明彦先生が「受けさせてあげましょうよ」と家族を説得してくれました。とても感謝しています。英語の原博司先生には受験の直前まで英作文を見てもらいました。学校の授業がなくなってからもFAXでやりとりして添削してもらい、当時の文面が最近まで実家に残っていました。添削だけでなく励ましてもらいうれしかったです。
高校時代の一番の思い出は、イタリアに留学したことですね。留学先のホストファミリーと出会って、色々な点でこれまでの価値観がひっくり返りました。ホストファザーとホストマザーはともに医師だったのですが、水・木・金曜日の3日間しか仕事に行きません。曰く、「私たちが週5日働いたら、その分仕事がなくなる人がいるでしょう。みんなで分け合った方がいい」とのこと。二人は再婚で、家族はお母さんの連れ子であるホストシスター、そしてガーナ人の養子のお兄ちゃんが2人いました。イタリア人3人、ガーナ人2人の家族に日本人の私も入れてもらい、深い愛情を注いでもらいました。最近はなかなか会いに行けてないのですが、とても大切な、かけがえのない存在です。留学後は滝高校の2年に戻り、一つ下の学年に下がったのです。1年間休学していましたからそうなりますよね。部活もやってなくて、後輩に知り合いもいないから大丈夫かなっていう心配もあったのですけど、その一つ下の学年のみんなにもすごく仲良くしてもらえ、従来の同級生、そしてイタリアの友達とあわせたら、友だちは3倍みたいな感じになりました。
大学時代はどうですか。
【松岡康子】
高校生の頃、中国で天安門事件が起こり、ベトナム戦争終結後の弾圧から逃れようとベトナムから難民がボートで他国に渡るボートピープルの存在などを見聞きするうちに、アジアに興味を抱くようになったのです。それで大学は国際関係の学部に行きたいと、何校か探し受験しました。国公立に本当は行きたかったのですが、大学センター試験のできがよくなくて、結果として津田塾大学学芸学部国際関係学科に入ったのです。アジアの国の途上国で、かつ英語が通じる国に興味があり、それがフィリピンでした。フィリピンには、はじめは1年生の春休みに10日間ぐらいスタディツアーで行ったのですが、やっぱり英語がしゃべれないとダメだと痛感し、2年生の春休みに英語習得のためにアメリカに2ヶ月間行きました。そうこうしているうちにフィリピン大学と津田塾大学との交換留学の制度ができたのです。これだ、と思って応募して1年間留学したということです。
1年の時は一橋大学とのテニスサークルに入っていましたが、走ること、泳ぐことが得意だったので、トライアスロンをやってみたいと。ちょうど大学の近くにトライアスロンをやっている社会人たちが集まるカフェがあったので、そこでバイトさせてもらいながら、自分もトライアスロンやりたいと言って仲間に入れてもらいました。トライアスロンに必要な自転車を買って、週末に競技が開かれる場所まで、車に同乗し連れていってもらっていました。その頃のトライアスロンの大会には女子の参加は少なくて、大学2年生か3年生の時にインカレの種目にトライアスロンが採用され、個人で4位に。4年生の時には、津田塾大学で3人のチームを作って大学対抗の部にも出場したのです。そうしたら、日本体育大学とか、日本大学、順天堂大学などスポーツ強豪大学を差し置いて優勝してしまったのです。チーム3人の合計タイムで順位が決まるのですが、足切りタイムもあり、3人全員が制限時間内にゴールしなければいけない。快挙でした。津田塾大学の優勝は当時大きな話題になりました。
【徳田周子】
大学生になっても、あまり変わってなくて、生物学研究会っていうサークルに入っていました。八重山諸島に行って、シュノーケリングで魚を観察したり、山に登って高山植物を観察と、滝中時代に佐分先生がやってくれたことと同じことを大学のサークルでやっていました。2年生の後半から3年生は、もう毎日学生実験があって、毎週レポートを書かされていました。学部4年で入った研究室ではアフリカツメガエルを、修士ではショウジョウバエを使って研究をしていました。カエルもハエも、遺伝子としては人間と共通部分が多いので、人間の体のしくみを知るためにモデル生物として、世界中で使われています。修士では、ハエの脳で記憶ができるのに必要な遺伝子はどれかということを調べていました。それが分かれば、似たところがある人間の遺伝子をあてはめられるのではないかと。しかしあまり結果は出ず、自分は研究者には向いていないと考えるようになったのです。
趣味はなんですか。今はまっていることなどありますか。
【松岡康子】
走るのはもう4年前ぐらいにやめました。やめたきっかけは、名古屋ウィメンズマラソンが新型コロナ流行のため一時期オンラインの大会になったんですね。それはつまらない、それにエントリー料がすごく高くなったのです。あと競技に出ようと思うと、自分はこのぐらいで走りたいっていうイメージがどうしてもあって、それが年齢的に考えると体にかなり負担がくるなと思ったのです。若い頃にやっていた競技だと、どうしてもアスリートみたいな気分になってむきになってしまうところがあるんです。そこで、楽しんでスポーツをやるっていう方向に変えようと、大学1年生以来のテニスを始めたのです。たまたま同じマンションにテニスやろうよという人がいたので、ママ友とかパパ友を誘って、毎週末の土日の早朝に1時間半ほど庄内緑地のテニスコートで楽しんでいます。すごく安く借りられるのですよ。少しはうまくなりたくて、テニススクールにも週1回通っています。
【徳田周子】
趣味と言えるかどうか分からないのですが、学生時代からずっと熱帯魚を飼っています。60cm水槽にコリドラスという小さいナマズなどを飼っています。転勤の度に魚も一緒に引っ越しているのですよ。水槽は業者に運んでもらうのですが、ナマズは釣り具屋さんで売っているチャックで蓋が閉まるナイロン製のバケツで運びます。新幹線の中でバケツをもって座っていきます。本当は動物の中で一番好きなのは馬で、実は乗馬を趣味にしたくて、乗馬クラブに行ったりしているのです。ただ、乗馬クラブって会員制なところが多く、転勤がある私は一歩踏み出せずにいて。名古屋でも、まだ1回しか行ってないのですけど、できたら会員になりたいと考えています。馬は3歳ぐらいから好きで、保育園でも友だちとあまり遊ばずに馬の絵ばかり書いていました。なんで好きになったのかは分からないのです。その頃オグリキャップがブームでそれをテレビで見たのか。でも、そんなに競馬好きな人が身近にいたわけでもないですし。
座右の銘はなんですか。また、在校生ら若い人たちに何か助言がありましたら。
【松岡康子】
座右の銘とかはないのですが、縁とか機会があれば、逃さずにしっかり掴みに行きたい、チャンスがあればやった方がいいというのがモットーの1つです。いつかやろうと思っているうちに、タイミングを逸してできなくなくなってしまう、それは嫌だなと。先延ばしにしないで、できるときにやろうと常に考えています。この春も、次男の高校受験が終わったタイミングで、3泊4日でフィリピンに行きました。中華航空機事故の生存者のシラニーさんの自宅にお邪魔したり、留学中にお世話になった人たちにも直前に連絡して会いました。強行日程でしたが、それはそれですごく楽しい。子どもにとってもいい経験になりますし。とにかくたくさんの経験をしたいって大学の頃から思ってきました。フィリピンのほかにも色んな国に行きましたし、大学の学園祭の実行委員長とかもやりました。特に若い頃は、やってみないかって言われたら、「やります」と答えていました。その一つ一つの経験が次に繋がると考えていたからです。縁にも恵まれていて、人との縁によって、今の自分があると思っています。出会いや縁は一番大切にしたいですね。取材でもその時だけではなく、信頼関係を築いていくことが大事だと思っていて、信頼関係があるからこそ深いところまで話を聞かせてもらえると感じています。
若い人たちには、チャンスがあれば、すぐに行動に移してほしいですね。うまくいかなくても、失敗しても、それが次の糧になる。いろんなことに興味をもって、いろんな経験をしてください。行動することで、出会いがあり、縁が生まれます。そしてその出会い、縁が人生を楽しく、豊かにしてくれるはずです。
【徳田周子】
わたしも座右の銘っていうのはないのですが、スピッツっていうバンドの「放浪カモメはどこまでも」という歌の歌詞がすごく好きなんですよ。「上昇し続けることはできなくても、またやり直せるさ」という一節です。シンプルな言葉ですが、挫折しそうなとき、心折れそうなときも、前向きだけど肩の力が抜けたこのフレーズを思い出しては、頑張ろうと思っていました。
学生の頃ってやりたくないこともやらなければいけないし、自分でいろんなことを決められなかったり、責任が取れなかったりしますが、大人になると自分で自分の生き方を決められるようになる。経済的なことも含めて自立してやっていける。自分で自分の生き方を選べるっていうのはすごく楽しいなって思うのです。大人になるって楽しいよ、ということを伝えたいですね。

[プロフィール]
松岡 康子(まつおか やすこ)
NHK名古屋放送局 コンテンツセンター 記者
1971年12月 愛知県小牧市生まれ
1990年3月 滝高校卒業
1995年3月 津田塾大学学芸学部国際関係学科卒業
1995年4月 日本放送協会(NHK)入社
1995年4月 NHK静岡放送局 記者
1997年7月 NHK豊橋支局 記者
1999年7月 NHK名古屋放送局 記者
2001年7月 NHK科学文化部 記者 医療担当
2008年7月 NHK生活情報部 記者 主に医療、介護、子育て分野担当
2013年7月 NHK名古屋放送局 コンテンツセンター記者(現任)
公益財団法人日本AED財団 実行委員(現任)
[プロフィール]
徳田 周子(とくだ しゅうこ)
NHK名古屋放送局 コンテンツセンター ディレクター
1985年7月 愛知県稲沢市生まれ
2005年3月 滝高校卒業
2009年3月 東京大学 教養学部生命認知科学科卒業
2011年4月 日本放送協会(NHK)入局 大阪放送局制作部
(情報番組・ドキュメンタリーなど制作)
2012年3月 東京大学大学院 理学系研究科生物化学専攻修士課程修了
2016年8月 NHK 制作局 生活食料番組部
(『所さん!大変ですよ』『あさイチ』『ノーナレ』など制作)
2023年8月 NHK名古屋放送局 コンテンツセンター ディレクター (現任)
(『東海ドまんなか!』『まるっと!』『FMシアター』など制作)
※プロフィールは、取材日(2025年4月13日)時点の内容を記載しています。