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滝学園同窓会オフィシャルサイト

活躍する同窓生に学ぶ:廣瀨德藏氏(株式会社プロスタッフ 代表取締役社長)

活躍する同窓生に学ぶ:廣瀨德藏氏(株式会社プロスタッフ 代表取締役社長)

「お客様に喜ばれるモノづくり」~常に挑戦し続ける、諦めない精神~


株式会社プロスタッフ 代表取締役社長 廣瀨德藏(昭和47年卒)

株式会社プロスタッフ
https://prostaff-jp.com/

カー用品のパイオニアで千原ジュニアのCMといえば、プロスタッフ。
実は、この会社1919年の創立で、100年以上にわたりモノづくりをされています。今まで作られてきたモノはさまざまで、どのような道のりを歩まれたのか、代表取締役社長の廣瀨德藏さんに伺います。

滝学園卒業後、現在に至るまでどんな道のりでしたか。
また、いつ家業を継ごうと考えられましたか。

 2代目社長として父親が経営していた「竹原」という会社は、繊維機械メーカーでした。その父親が1968年ある雨の日に自動車で油膜による視界不良が原因で追突事故を起こした。父親はもっと油膜がきっちり落とせる油膜取りはないか探したがみあたらない。それなら自分で開発しようとなったのです。まったく関係ない分野での取り組みになるのですが、父親は自分が油膜による事故から被った苦しみを他の人には感じてほしくないという純粋で単純な気持ちがそうさせたのでしょう。結果として、「竹原」の業態を変えていったきっかけにはなりました。
 ゼロから始めた無謀ともいえる挑戦でした。染色業を営んでいる親族から界面活性剤の知識を得、機械メーカーとして機械を磨き上げる研磨剤の知識など駆使し、独学であらゆる研究を重ね、試行錯誤を繰り返して分かったことがありました。油膜は洗浄だけでは落ちない、太陽の光で焼き付いてしまった油膜は樹脂被膜にかわってしまい、界面活性剤で拭いただけでは落ちないということです。物理的に油膜をそぎ落とすしかないというところに到達したのです。ただ、ガラスを研磨すると油膜を削ぎ落せるが、窓ガラスが擦りガラスになってしまう。刀を打ち粉で磨くときれいになるということからピンときて、ガラスよりも硬度の柔らかい超微粒子の研磨剤状のものでガラスを磨けば、擦りガラスになることなく油膜を削ぎ落せるのではと、開発したのが「ビックリン」(のちに改名しキイロビン)でした。8年の歳月がかかりました。この開発を一人でやってのけたのですから、父親には頭が下がります。

発売時の商品名は「ビックリン」後に「キイロビン」となる
「キイロビン」の実演販売風景
ヒット商品「キイロビン」
1976年(財)全日本交通安全協会の推薦状

 1975年のこと、せっかく開発したカーケア用品の「キイロビン」を売る人がいないと、当時大学4年生だった私が、ガソリンスタンドを一軒一軒売り歩きました。しかし、「擦らなければいけないなんてこんな面倒なもの使えるか!」と行く先々のガソリンスタンドで言われ、売れない日々が続きました。当時は、窓ガラスにスプレーするだけの油膜取りが主流で、スポンジに液をつけてゴシゴシする手間が面倒がったのです。この方がきっちり油膜を落とせますと言っても、面倒くささが先立っていたのです。これは売りにくいと父親に相談したところ、
「売ろう売ろうと焦らんでいい。この油膜取りを使ってもらって、一人でも多くの方に油膜のギラギラが原因で起こる交通事故から助かってもらうことができたらそれでええから、そんな気持ちでやってくれ」と言われました。
 それからの私は人助けの信念で懸命に商品を紹介するようになりました。その後、クチコミでも広がり、キイロビンは雨の日の視界不良を解消する商品として業界内でも知れ渡りました。1976年、(財)全日本交通安全協会の推薦品となると認知度が一気に上がって国内全域に市場が拡がっていきました。しかしガソリンスタンドで販売していたカーケア商品が時代の変化により売れにくくなりホームセンターでの販売に代わっていきました。月曜日から金曜日までは、ガソリンスタンドへの営業をし、土日は、ホームセンターの店頭に立って実演販売を毎週のようにしました。自動車のフロントガラスに見立てた実演台に雨の代わりに霧吹きで水をかけて、ハンドワイパーでその水をぬぐいながら、油膜を落としたところそうでないところの差を見比べていただくかたちで、正しいガラスの手入れ方法を説明しながら実演していました。「キイロビン」の実演販売は好評で、土日の二日間で数百円の商品が30万円ほど売れる日がありました。こういった努力によって「キイロビン」は全国のホームセンターで取り扱われるようになり、今では油膜取りナンバー1の商品になりました。
 わき目も振らず、休みなしで働いた15年間でした。必死になって「キイロビン」を世に知らしめようと頑張った15年間でした。その間、くじけることなく、やり遂げられた自分を支えてくれたものが三つあります。ひとつは父親とお客様の言葉です。「キイロビン」が売れずに、父親に愚痴った際言われた「一人でも多くの人に油膜が原因で起こる交通事故から助かってもらいたいのだ」の言葉。そしてもうひとつの言葉。それは、ある日ホームセンターのカーコーナーでお客様から言われました。ワックス選びに迷っているお客様に「この商品がいいですよ」と勧めたところ、「あんたが勧めるなら間違いないやろ!あんたあの油膜取りのお兄ちゃんやろ!」と。
そのお客様は以前、キイロビンを私の実演販売で購入し、その効果に満足したのでしょう。人のためになる商品を作り、その優れた内容に対する信用性は次につながっていくという事を教えてくれた言葉でした。この二つの言葉は、大きな支えとなりました。責任をもって妥協することなく製品の開発をし、そして目先の損得にとらわれないことが、信用につながることを教えられました。
 最後に、自分を支えてくれた大きなものがあります。それは滝高校時代のバスケットボール部で培われた「最後まで諦めない」という精神です。高校2年時、先輩率いるチームは県大会でわが校初の優勝を果たしました。2年生の冬、我々が主となったチームは新人戦を戦いました。先輩が築いたチームの誇りを胸に臨んだ大会での結果は、決勝リーグで全敗。もっと練習試合を積もうと、三重県の優勝校との試合に挑んだところ、まさかの100点ゲーム、ダブルスコアでの負け。負けただけならいいが、試合中、相手にゴロでロングパスをされるという屈辱的敗戦となったのです。さすがに我々も目覚め、自発的に頭を丸めて再出発。滴り落ちる汗と血の混じったおしっこ。毎日へとへとで倒れる寸前まで練習しました。そして3年生の夏の大会。私たちにとって最後の夏です。意気込んで臨んだ大会の2回戦の相手は岡崎城西高校。ここにも練習試合で100点ゲームのダブルスコアで負けています。ところが、ふたを開けてみれば、試合は息の詰まる1点差のシーソーゲーム。相手は、得意なカットインがチャージングの反則を取られるなどで、どんどん焦っていきました。数カ月前、楽勝した滝高校にここまで接戦に持ち込まれたことがその焦りをさらに大きくしたようです。そして、我々は、遂に1点差で勝利したのです。その後は勢いに乗って勝ち進み、愛知県大会で優勝することができました。迎えた高松インターハイでは2回戦で春に全国ベスト8になった膳所高校と対戦し、ここでも1点差の粘り勝ちを収めたのです。「最後まで諦めない」皆の気持ちがひとつになると想像以上の力が発揮できる。「死に物狂いでの練習」は嘘をつかない。滝校バスケットボール部を通じて得たこの精神は、この15年間をやり遂げられた自分の大きな支えとなりました。「人のためになる仕事をという想い」と「諦めない精神」は、今も私の会社経営の根幹をなすものとなっています。
 50年前、一つしかなかった商品は今では500アイテム以上。海外生産・販売を展開し、時代に合った感覚でカーケミカル分野でここまできました、今は他の分野にも挑戦したい。EV事業も手掛け、今後は化粧品、医薬部外品、家庭用品さらにエビの陸上養殖と広げていきます。従来のカーケミカル分野でも、ナンバー1製品を作るというよりオンリー1製品を作る意識を持とうと。その基本は、人の役に立つもの、人を幸せにするものを作って提供していくという理念です。
 最近、2022年7月から開始したエビの養殖事業も、「日本の食料難を少しでも解消したい、日本を救いたい」という一心で始めました。金華海老(きんかえび)当社の登録商標/バナメイエビを岐阜県揖斐郡池田町で養殖しています。花の栽培で使っていた温室(ガラス製)の中に水槽を作り養殖しています。その温室も、花農家の後継者がいない、採算が合わないと、ある意味、“放棄”されたものでした。それを再利用することで、花農家の人たちの役にも立っているのです。今では25槽以上の水槽を使って飼育しています。抗生物質など化学薬品を使用せず育てたバナメイエビは味も好評で、いろいろな人たちに幸せをもたらしていると言えるものになっています。カー用品事業を通じて、さらに今後、これらの事業を通じて、「食」「環境」「地域創生」をテーマに全ての人が安心して暮らせる社会を目指していきます。

趣味は何ですか。
 趣味はゴルフぐらいなもの。妻からは、「あなたの趣味は仕事でしょ!」とはっきり言われます。

座右の銘は。
 座右の銘は特にないのですが、私のモットーとして「夢を持つ」「人に喜びを与える」「常に挑戦し続ける」この3つがあります。そもそも「働く(はたらく)」という言葉は「傍(はた)を楽(らく)にする」意味を持つと考えています。この「はた」とは自分の周りにいる人たちのことです。その人たちを楽にさせる、幸せにすることが「働く」ことの大きな意味だと考えるのです。
 夢をもって、人を幸せにする仕事に挑戦していく。挑戦したら最後まであきらめずに。その頑張った経験が次に新しく挑戦する際、「絶対にできるんだ」という自信にかわっていくのです。そして人生を切り開いていく原動力になるのです。

【プロフィール】
廣瀨 德藏(ひろせ のりぞう)
株式会社プロスタッフ 代表取締役社長

1953年12月 愛知県一宮市生まれ
1975年6月 大学4年の時、株式会社竹原にて、油膜取り「キイロビン」の営業を手伝う
1976年3月 名古屋学院大学経済学部卒業
1976年4月 株式会社竹原 入社
2002年9月 中国、上海汽車用品有限公司設立
2003年7月 株式会社竹原 代表取締役社長就任
2004年2月 中国、上海保斯道貿易有限公司設立
2008年5月 株式会社竹原より株式会社プロスタッフへ商号を変更
      株式会社プロスタッフ 代表取締役社長(現任)
2011年6月 英国、マン島EVバイクレースに日本企業として初参戦、5位入賞
2012年7月 台湾保斯道公司設立
2016年2月 日比国交正常化60周年記念テレビドラマのモデルになる
2022年1月 紺綬褒章授与

※プロフィールは、取材日(2024年1月9日)時点の内容を記載しています。

プロスタッフにて:廣瀨德藏代表取締役社長と大西同窓会長