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滝学園同窓会オフィシャルサイト

活躍する同窓生に学ぶ:谷鉄也氏(共同ピーアール株式会社 代表取締役社長)

活躍する同窓生に学ぶ:谷鉄也氏(共同ピーアール株式会社 代表取締役社長)

「勝者には何もやるな」~人生のテーマは、企業、地方、人物など 弱ったり、傷んだものを再生させたり、元気づけたりすること~

共同ピーアール株式会社 代表取締役社長 谷 鉄也(平成元年卒)
株式会社新東通信 取締役 東京代表
https://www.kyodo-pr.co.jp/
https://www.shinto-tsushin.co.jp/

どのような経緯で、共同ピーアールの代表になられたのでしょうか。
また、どんな取り組みをされていますでしょうか。

 2015年から総合PR会社である共同ピーアールの社長を務めています。それ以前は、広告会社 新東通信の代表を務めていたのですが、出資していた共同ピーアールの業績悪化を目の当たりにして、人生を掛けて会社を立て直したいと決意しました。当時は非常に稀なことでしたが、株主として経営陣に対して委任状闘争(プロキシーファイト)を仕掛けて、共同ピーアールの社長に就任しました。ポテンシャルがあるのに駄目になっていく会社を見過ごせないんです。
 東京で単身生活をしてから18年が経ちますが、新東通信の東京代表に就任した時も、停滞していた東京本社の売上を伸ばすべく、いくつかのプロジェクトを立ち上げました。最も成長したのは通販広告事業。通販広告に目を付けたのは、中小企業でも大手と戦えるものだったからです。通販には、地方の企業が多いこともその証です。通販のコンサルに弟子入りし、ダイレクトマーケティングの創始者とも言われるレスター・ワンダーマンの書籍などを読みあさりました。分かったことは、ダイレクトマーケティングの世界はセオリー通りにやれば結果が出せ、再現性があるということ。そこで自分自身がセミナーの講師になり、集客をし、お客さまの通販業務に関わっていきました。通販プロジェクトの最初の売上は15万円でしたが、今では40億円になっています。
 次に目を付けたのがPR事業です。新東通信でもPR事業はやっていましたが、厳しかった。気づいたのは、プロがいないということ。そこで老舗のPR会社である共同ピーアールから講師を招いて、出資もしました。そこから共同ピーアールとの関係が始まりました。しかし、いっこうに新東通信の数字が伸びない。結論として、この業界は暖簾が大きくものを言うんだなということが分かったのですが、その共同ピーアールの業績がどんどん悪くなる。業界トップの老舗であるこの会社をつぶしてはいけないと、創業者のご子息を訪ねて、「今の経営では先がない、私が立て直します」と言って、株を譲り受けたのです。そして、筆頭株主として、色々な提案をしたのですが、当時の社長は聞く耳をもたなかった。田舎者が何を言っているのだと思ったのでしょう。いよいよ倒産の危機を感じて、プロキシ―ファイトを実行しました。プロキシーファイトは、株主総会での委任状を他の株主から集め、自分の持ち株と合わせて過半数の議決権を得るために行います。結果的に敵対的な買収になりました。銀行筋からのプレッシャーもあり、親にも猛反対されましたが、「死ぬ覚悟でやる。必ず成功させる」と言って、最後には「好きにしろ」と許してもらいました。週刊誌にも叩かれましたが、不眠不休で株主の説得工作を続けて、そのプロキシーファイトを成功させました。2015年3月27日のことです。奇しくも、同じようにプロキシーファイトをしていた大塚家具と同じ日でした。当時の共同ピーアールは、200人の社員のうち半数が辞めていて、社内はギスギスした雰囲気で最悪でした。その荒廃した状況の中で、メンバーと力を合わせて半年後に黒字化を達成しました。再生100日プロジェクトを立ち上げ、あらゆるネットワークを駆使し、全身全霊でやった結果でした。黒字になると、社員の見える景色が変わるのですね。それがまた社員のモチベーションを高めるのです。
 こういった経緯で共同ピーアールの社長になって8年となります。2021年には、37年ぶりにオフィス移転をしたのですが、ふとしたご縁で知り合いだった隈研吾さんにオフィスのエントランスをデザインしてもらいました。2022年にはYouTubeプロダクションのVAZ、データマーケティング会社のキーウォーカーを子会社化しました。特にVAZは7年連続赤字だった会社ですが、社長に就任して1年後に黒字化することができました。このPR市場には、まだまだ成長の余地があると大きな可能性を感じています。

広告業界に入ろうと思ったきっかけは何ですか。
 私の父親は新東通信という広告会社の創業者。名古屋では名の通った会社です。父は私を跡継ぎとして考えていたようですが、私がなりたかったのは小説家でした。私は小説家になる勉強をしながら、夜はタクシーの運転手で金を稼ぎ、バックパッカーとして、大学時代、卒業後と40か国以上旅をしました。インドでは赤痢で死にかけ、ギリシャでは誘拐の目にあうなどと散々でしたが、小説のような何かアウトローな生き方をしたいという強い欲求がそうさせたのでしょう。アウトローに憧れていた自分にとっては、親の跡を継ぐなんて魅力的ではありませんでしたし、努力してもあまり評価されない二代目の立場に飛び込みたくなかったというのが本心でした。
 その考えが一変した出来事がありました。それは、父が社員のみんなに対して行ったスピーチを聞いた時です。私の中で何かが起こったのです。その話の内容は、「EUが作られた時、誰もがそんなこと不可能だと言っていた。でも、ひとりの人間が奇跡を起こし、それを実現させた。会社もそうだ。そういった人がいて変わるのだ」。これを聞いた時、どうしてだか分からないのですが涙が溢れて、この人のために生きようと思ったのです。もともと育ててくれた父親には感謝していましたが、改めて会社に対する父の想い、考え方に触れて、自分の中で腑に落ちたものがあったのでしょう。
 数年後に、I&S BBDOという広告会社、新東通信の子会社を経て、2001年に新東通信に入社しました。2005年の愛知万博では売上をぐんと伸ばしましたが、借金も多く低収益でした。さらに翌年はその売上がなくなり、新東通信の厳しい時代が続きました。大きなリストラ策をやむを得ず講じました。その一方で、当時、私はグロービスマネジメントスクールに通っていたのですが、その卒業プロジェクトで企画・出版した本、『最強の名古屋 デラ・ベンチャーズ!』で名古屋の若手起業家を取材したことが、その後の方向性を決めるターニングポイントになりました。11人の起業家をインタビューしたのですが、皆さん魅力的な人ばかり。ギラギラした野心をもち、動物的感覚で物事を考え、判断していく。話を聞いていて、その魅力にどっぷりはまっていきました。実際、インタビューした中の7社が上場を果たしています。自分のちっぽけさを思い知らされ、この人たちと対等に仕事の話ができるようにならないと、経営者にはなれないと痛感したのです。
 それがきっかけにもなって、東京に行こうと。肩書きのない東京で自分の絵を描きたい。自分の描いた絵を認めてもらいたいという強い思いがありました。名古屋ではどれだけやっても、二代目社長というバイアスがかかってしまいますから。何かゼロから作ってみたかったのです。35歳の時です。その後は、家庭を顧みず死に物狂いやってきて、18年の単身生活はなりました。実は今年から娘が東京の大学に入り、二人で生活を始めました。楽しいですね。娘のために料理作ったり、娘の食べた食器を拭いたりするのも楽しい。顔と顔を合わせた、アナログなコミュニケーションが人にはどれほど大切かが分かりました。コロナによって、社内でもコミュニケ―ションが減ってきていることを危惧していましたので、今年、新東通信東京本社をリニューアルしたのですが、オフィスにおしゃれなキッチンを作りました。そのお披露目の際には、話題喚起のために、惜しまれて閉店していた名店『銀座キャンドル』の伝説のチキンバスケットを復活させて発信しました。普段は、社員のコミュニケーションの場として、“社員が作る社員食堂”として活躍しています。先日、私も50人分のカレーを作りました(笑)

滝学園時代、どんな生徒でしたか。
 滝学園での中学・高校は私にとって黒歴史です。勉強はできない、家庭もごちゃごちゃ、もてない。毎日鬱屈した気分で学校に行っていました。それが爆発したのが高校2年の時のケンカ騒動でした。相手は商業科の生徒ですが、よくわからない“いんねん”をつけられ、ケンカして病院送りにしてしまったのです。もちろん無期停学。こんなやせっぽちに何ができるんだと思ったのでしょうが、当時の私は、毎日2時間ウェイトトレーニングしていましたし、空手もやっていました。体重50キロ台でベンチプレスは100キロ挙げていました。それで鬱憤を晴らしていたのです。良くも悪くも、これが滝学園時代の一番の思い出かもしれません。
 先生では高3の時の担任だった堀西先生にはお世話になりました。あとひとり、坂倉先生。坂倉先生が授業中に配ったエッセイの内容が「エジプトのピラミッドの頂上から立小便をした」というものでした。不謹慎かもしれませんが、これがずっと心に引っかかっていて、私をバックパッカーに向わせたきっかけになったのかもしれません。
 勉強もできない、家庭はボロボロ、女の子にはふられ、死にたいよと考えていた高校時代。それが30年たって、自分の中で昇華されました。高校時代の「すべてを見返してやろう」という気持ちと「すべて忘れたい」という気持ちが整理されて、数年前に初めて同窓会に出席しました。高校時代とは違うんだと気合を入れて、オーダーメードスーツでばっちり決めていきました。同級生からの「谷、頑張っているな」「おしゃれになったね」という声の中、一番会いたかった以前ふられた女性からは一言。「谷君、全然変わってないね」。これには笑ってしまいました。ダサかった高校時代から変わったんだという自負がふっとんでしまい、逆に力をもらったような気がしました。「やっぱり、俺の惚れた女は違うな。間違ってなかった」とも思いました(笑)

趣味は、何でしょうか。何か今はまっていることはありますか。
 最近は、筋力トレーニングにはまって、パーソナルトレーニングを受けています。ベンチプレスは100キロを挙げるようになりました。あと、料理をすることも学生時代から大好きで、休みの日に手打ちうどんや梅酒を漬け込んだりしています。銀座の飲食店イベントも開催しているので、趣味と実益を兼ねて、銀座の飲食店やバーを1,000軒以上めぐっています。あと20年かけて“銀座の達人”になりたいと思っています。

座右の銘は。
 座右の銘などというものはおこがましくて特にないのですが、ヘミングウェイの「勝者には何もやるな」という言葉は響いています。この言葉は幻冬舎の見城徹社長の著書で知ったのですが、名声や報酬よりも勝利そのものに対するこだわりが感じられて好きな言葉です。私自身は企業、地方、人物など「弱ったり、傷んだものを再生させたり、元気づけたりする」ことが人生のテーマだと思っています。親やお世話になった方への恩返し含めて残りの人生で自分のミッションを果たしていければと思っています。

【プロフィール】
谷 鉄也(たに てつや)
共同ピーアール株式会社 代表取締役社長
株式会社新東通信 取締役 東京代表

1970年9月 愛知県名古屋市生まれ
1978年3月 青山学院大学文学部卒業
その後、ロンドン大学、岐阜県立国際科学アカデミーにて学ぶ
2013年9月 株式会社新東通信 代表取締役社長
2015年8月 共同ピーアール株式会社 代表取締役社長
2022年1月 株式会社VAZ 代表取締役社長
2023年6月 株式会社キーウォーカー 取締役会長

★著書
『最強の名古屋 デラ・ベンチャーズ!』
著者: グロービスベンチャーゲート(谷鉄也含む5名)
出版社:日新報道
ISBN-13:4817406127

※プロフィールは、取材日(2023年9月13日)時点の内容を記載しています。

新東通信東京支社にできたキッチンにて