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活躍する同窓生に学ぶ:松本公一氏(国立成育医療研究センター 小児がんセンター長)

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活躍する同窓生に学ぶ:松本公一氏(国立成育医療研究センター 小児がんセンター長)


「エンドポイントを自分においてはならない」~小児がん患者に寄り添って~

国立研究開発法人 国立成育医療研究センター 小児がんセンター長
松本公一(昭和56年卒)

国立研究開発法人国立成育医療研究センター
https://www.ncchd.go.jp/




医療技術が進み小児がんの治癒率は7~8割と言われる昨今、少しでも多くの小児がん患者を救いたいと、国立成育医療研究センターで小児がんと対峙(たいじ)している医師。その現場で奮闘されている松本公一さんにお話を伺います。

国立成育医療研究センターの小児がんセンターでは、どんなお仕事をされていますか? また、どんなきっかけで国立成育医療研究センターのお仕事に就かれたのか、お聞かせください。
 小児がんの実地診療をしています。病床は67あって、入院患者さんは常時50〜60人くらい。年間の新入院患者さんは120〜150人ほどいます。「小児がん」は15歳未満に発症するがんのことで、年間約2500人の子どもたちが診断されています。急性白血病、脳腫瘍、神経芽腫(しんけいがしゅ)(※1)などが代表的な疾患です。現在は約80%の患者さんが治癒する時代になりましたが、それでも20%の患者さんは治りません。また、治癒した経験者の方々も、その40%に治療に伴う長期の合併症があると言われています。
 ここ国立成育医療研究センター(以下成育)では、こういった子どもたちの治療はもちろんですが、日本で唯一の厚労省直轄、国立の小児病院という立場から、小児がんの医療提供体制整備の仕事や、小児がんの啓発・広報の仕事も数多くあります。こちらに来たきっかけは、2013年に成育に小児がんセンターをつくるということで、そのセンター長の公募があったことです。もともと、成育には腫瘍科があって、腫瘍科の医長として熊谷昌明先生がいらっしゃいました。私は熊谷先生の友人の一人で、よく小児がん治療の未来や趣味の音楽について語り合っていました。その熊谷先生が2012年に脳腫瘍のため亡くなられ、その縁あって、公募に応募して受かったということです。熊谷先生の遺志を引き継ぐため箱根の山を越えてまいりました。

専門領域を決めるのに、小児科医を目指された背景や理由をお教えください。
 小児科は、学生の時から憧れの診療科でした。小児科の先生は優しい先生が多く、患者さんに接する時も同じ目線で対応されていることが見ていて心地よかった。子どもは正直で、裏表なく感情に素直ですよね。そんな子どもたち、患者さんと正面から向き合いう小児科医に憧れ、大学生の学生研究の場に小児科を選択したのです。現在のようにフローサイトメトリー(※2)もない時代でしたので、リンパ球(※3)の表面マーカーを調べるのに、蛍光抗体で染めてそれを蛍光顕微鏡で細胞をひとつずつカウントするという気の遠くなるような作業を行なっていました。夕方に検体が来て、それを夜中2時くらいまで、暗い部屋にこもってカウントすることもありました。乳児の免疫構築がどのようになっていくかがテーマでしたが、よくやったと思います。私は、名前を「きみかず」と言いますが、人からは「きみじか」と言われることがあるように、昔はすぐ怒るような人でした。今でこそ、性格が丸くなったと信じていますが、結果が出ないのによくやったと思います。ただ、免疫といった奥深い学問に少しでも触れることができたのは、その後の人生に大きく役立ったと思っています。1994年から2年間留学したアメリカのシアトルでの移植免疫の研究につながったからです。白血病細胞が免疫機構を逃れる原因の検索で、CD80, CD86、CTLA-4といった接着分子(※4)の研究でしたが、今でしたら、免疫チェックポイントの機構の一つとして華やかな分野ですけども、当時は地味で、なかなか成果の出ない分野でした。
 卒業当初は、小児科の免疫チームを専攻しようと思っていたのですが、いざ大学で勤務すると、免疫の病気よりも白血病や小児がんの患者さんが多いことに気づきました。しかも、1987年の卒業当時、あまり治らなかったのです。夜中に、ポケベルで呼ばれて緊急発進で病院に向かうけど、間に合わずに当直の先生に死亡宣告していただくようなことも多かった。そして、お見送りする時に必ず、ご両親が「こんな子が、これからは助かるようにお願いします」とお話しされるのです。そんなご両親の思い、亡くなったたくさんの子どもたちの思いを今でもいっぱい背負っていると感じます。

国立成育医療研究センター内にて

子どもの頃の夢は? いつ頃から医師の仕事をしようと考えられましたか。
 先日、実家を掃除していて、幼稚園の時の先生の講評を発見しました。「男の子同士で遊ぶよりも、女の子たちと本を読んだり、絵を描いていることが多かった」そうで、生粋の文系であったようです。その頃の夢は、サッカー選手になること、とあったけど、仲良しだった友達の武田くんが、同じくサッカー選手が夢と書かれていたので、きっとそれを真似したのだと思います。極めて付和雷同(ふわらいどう)な性格で、明確な夢など持っていませんでした。
 小学校3年の時に母を胃がんで亡くしました。決して裕福な家庭ではなく、先生や近所の人に助けられて生きてきました。近所の定食屋さんで、たまご丼を頼むと親子丼にしてくれて、しかも奢ってくれるなんてこともあり、夕食をカラーテレビのある近所のお家でいただくこともたくさんありました。母が亡くなったのは悲しいことでしたが、人の優しさを知ったことは私の人生で大きなことでした。その母が亡くなる時に、癌性疼痛で苦しそうに「先生、助けて」と絞り出すように叫んだ最後の声を聞いたとき、自分はなんにもできない無力感を感じたのを覚えています。
 中学2年生の時に、骨腫瘍が膝のあたりにできて、1ヶ月くらい入院したことがありました。当時、『サインはV』というドラマの中で主人公クラスの人・范文雀(はんぶんじゃく)さんが骨肉腫(※5)で亡くなるという衝撃なことがありましたし、『飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ』というノンフィクションの本で、主人公の整形外科医が骨肉腫の肺転移で亡くなるということもありました。ですから、非常な恐怖の中で手術を受けたという記憶があります。幸い、全くの良性で現在も無症状ですが、同じ病室に片足のない若者が入院していたりと、中学生としては衝撃的な出来事ではありました。
 母のがん、自分の骨腫瘍が医療職に就こうとしたきっかけになったのかなと今では考えています。

今春、滝中学校の坂野貴宏先生の次女春香さんが悪性の脳腫瘍で亡くなられたことを題材にした映画『春の香り』が上映されましたが、医療現場やご家族、周囲の方々のサポートが大変なことがよくわかります。がん緩和ケアと子どもサポートのため、様々な取り組みをしていらっしゃると思います。最近では、どんなことに取り組みをされていますでしょうか。
 子どもががんで亡くなるほど、辛いものはありません。長く、骨髄移植(こつずいいしょく)(※6)・臍帯血移植(さいたいけついしょく)(※7)などの移植医療に接していますが、骨髄バンクがなかった頃は、まったく打つ手もなく、ひたすら抗がん剤だけの武器で戦っていました。現在は、高額ですが、抗体薬やキムリアといった細胞治療薬、移植も臍帯血移植やHLA半合致移植など登場していますので、治療環境が格段に良くなっていると思います。日本骨髄バンク(※8)の前にあった東海骨髄バンク(※9)の立ち上げにも関与させていただき、小児の第1例を経験させていただきました。これらの時代の大きな変化を経験できたのも、大きな財産であると感じています。
 子どもの療養支援については、多職種連携が進んでいます。成育では、医師、看護師、薬剤師、ソーシャルワーカー、心理士、チャイルドライフスペシャリスト(CLS)(※10)、保育士、理学療法士などからなる「子どもサポートチーム」を作って、患者さんの心理社会的な問題等に関して、多角的に取り組むようにしています。CLSは海外でしか取得できない資格で、日本に60名程度しかいない職種ですが、小児がん治療にはなくてはならない存在です。治療や検査のプレパレーション(事前の説明と心の準備の援助)を、納得するまで行ってくれる、動的な支援と考えます。放射線照射も、CLSさんのおかげで、2歳でも麻酔なしに施行することができるほどです。現在、CLSなど療養援助担当者の体制整備を行い、全国に配置が進むように取り組んでいます。
 また、最近では、静的な支援としてファシリティドッグ(※11)も重要です。成育には、熊谷先生にちなんで「マサくん」が大活躍しています。ベッド上で患者さんのそばにじっと寝ているだけで、子どもたちが嫌な処置を頑張ることができます。小児だけでなく、大人も癒されますし、何より医療者たちも心が安らぎます。
 患者さんに接する時には、患者さんとしてではなく、普通の子どもとして接するようにしています。小児がんということで、特別な扱いは必要ないと考えています。もちろん合理的な配慮は必要ですが、過度に配慮する必要はありません。かわいそうと思うことも少し違うと考えています。治療を頑張った普通の子どもとして、ぜひとも褒めていただければと思います。

チャリティー活動、クラウドファンディングなどにも取り組まれていますね。
 私は現在、エンパワーチルドレンの理事も務めています。これは、小児がんの子どもたちとその家族を、エンターテイメントや金銭的、社会的支援を通じて応援する活動です。毎年2月15日、世界小児がんデーの日にチャリティコンサートを開催しています。アーティストの人たちがみなさん小児がんを応援してくださり、その思いに胸が熱くなります。小児がんの応援ソングとして、つんくさん作詞、坂本龍一さん作曲の「My Hero 〜奇跡の唄」があります。ぜひ、YouTubeなどで聴いていただけるといいかと思います。
https://empower-children.jp/lec/
https://www.youtube.com/watch?v=1910rBdorX4
 ハートリンク共済、ハートリンクワーキングプロジェクトの理事長も務めています。ハートリンク共済は、小児がん経験者でも入れる共済保険、ハートリンクワーキングプロジェクトは、小児がん経験者の就労支援のNPOです。新潟の新潟日報社さんのメディアシップという社屋内にハートリンク喫茶を開設して、そこで就労のための教育をしてから社会に送り出すという取り組みをしています。
https://cchlwp.com/
 クラウドファンディングに関して、成育では2017年に、無菌室を増床するためのクラウドファンディングを行いました。最近でこそ流行りですが、2017年当時、医療分野でこのクラウドファンディングを行うことは、まずなかったと思います。当初の目標を1500万円としていましたが、わずか3日間で達成することができ、最終的には1861名から3116万円の温かい支援をいただくことができました。本当にありがたいことです。小児医療は、現在どこも莫大な赤字を抱えています。医療者がどれだけ努力しても、公的病院の赤字体質は変わりません。医療制度のしくみがそうだからです。子どもを大切にしない社会に未来はないと考えておりますので、例えば企業のふるさと納税のようなシステムで、社会全体で小児医療を支える仕組みがこれからは必要ではないかと考えます。

小児がん治療支援啓発番組『LEC TV 2025~子どもたちの「生きる力」をつくる~』より

やりがいを感じる時は。 特に記憶に残っていることは。
 患者さんが治癒して元気に退院する時が何よりも嬉しいです。名古屋第一赤十字病院で働いている時、大学に戻ることになったのですが、そのときに、入院している小児がんの子どもたちが私のために送別会を開いてくれたのは今でも覚えています。お昼でしたが、マクドナルドのハンバーガーにジュースで、病棟のプレイコーナーで、みんなで写真を撮りました。今では考えられないほど、温かいつながりでしたね。
 患者さんでは、なおちゃんのことが最も記憶に残っています。彼女は、4歳くらいで発症したホジキンリンパ腫(※12)という病気でしたが、難治性のため、頸部に大量の放射線を当てて、骨髄バンクから骨髄移植を行いました。移植自体は成功したのですが、GVHD(※13)という副反応が出てしまい。関節拘縮(かんせつこうしゅく)(※14)と肺障害をきたしました。結局20歳で亡くなったのですが、高校生の時に僕に手紙をくれたのです。そこには、「後遺症も大切な私の一部だと思います。今私は幸せものです。」とありました。そして「これからも多くの子どもたちを助けてくださいね。必ず元気になって楽しい人生を送り続ける子どもたちがひとりでも多く増えることを願っています。先生、約束ですよ!」と。文末の言葉、「先生、約束ですよ」に、いつも身の引き締まる思いでいます。

滝学園時代、どんな生徒でしたか。
 中学の時は柔道部。幽霊部員に近いものがありました。高校の部活は合唱部でした。全国学校音楽コンクールの地方大会で入賞したこと(多分)が記憶に残っています。人の声は好きで、合唱って本当にいいなと今でも思います。高田三郎、三善晃、広瀬量平、新実徳英、荻久保和明とか 本当にいい曲を書きますもんね。
 先生では高校3年生の時の担任だった中島政彦先生ですね。3学期に自宅改装のため家でまともに勉強ができなくて(寒いので)、学校に遅くまで残って、教室で勉強していたことがありました。その時、中島先生にすごく励まされたのです。何年か前の同窓会で、中島先生がそのことを覚えていらっしゃってとても嬉しく思いました。また先生は、私たちの担任が初めての担任だったそうで、「日々の演習」と称して、毎日数学のプリントを渡してもらい、赤ペンで添削していただきました。あれがなければ、数学の面白さはわからなかったと思います。本当に恩人です。
 化学の先生で長瀬明彦先生も忘れられない先生の一人です。トロンと呼ばれていましたが、ある意味“いい加減”で、化学を楽しく教えてくれました。地獄の行進というひたすらな有機化学の問題も忘れられません。20歳を記念して、何人かで古知野駅(当時)の近くの飲み屋さんに連れて行っていただき、あの当時で、総額2万円も散財させてしまい、今でも恐縮しています。

大学時代は、どんな生活でしたか。
 部活は、名古屋大学グリーンハーモニーに入って、広報係でした。高校からの合唱つながりですね。チラシやプログラムのデザインを一手に引き受けていました。このことは、その後の様々なロゴマークデザイン作成につながりました。あいち小児医療センターのロゴマークや、Asia Pacific BMT Groupのロゴマーク、日本造血・免疫細胞療法学会のロゴマーク、日本小児科学会の表紙デザインなどを私が手掛けました。昔から、絵を描くことが好きだったのですね。唄うことが大好きだったので、大学卒業後も一般の合唱団、グリーンエコーに入りました。すでに亡くなってしまいましたが、精神科医で指揮者のシノーポリ(※15)の指揮、フィルハーモニアオーケストラの演奏で、マーラー(※16)の交響曲8番「千人の交響曲」を演奏したことが思い出に残っています。
 アルバイトは、ほぼ週7回やっていて、バイトに明け暮れる毎日でした。学費と交通費、交際費を稼がなければなりませんでしたから。最初は小僧寿しのアルバイトに始まり、イベント会場の設置の単発アルバイトなどに勤しんでいました。しかし、主には、家庭教師でしたね。代々木ゼミナールのビルで、別の塾の先生をやっていたこともあります。

松本公一自ら手がけたデザインの数々

趣味は、何でしょうか。何か今はまっていることはありますか。
 趣味は、クラシック音楽とアニメーション、美術鑑賞でしょうか。クラシック音楽は、特にショスタコーヴィチ(※17)というソ連時代の作曲家が好きです。音楽に二面性があるのですね。交響曲第10番、ピアノ三重奏曲第2番が好きです。ピアノ三重奏曲第2番は、それこそ、1994年にシアトルに単身赴任で留学しているときに聴いたのですが、生まれて初めて音楽を聴いて涙しました。古来、ピアノ三重奏曲は鎮魂歌として作曲されることが多いのですが、留学の辛さ、やるせない気持ちや郷愁などが、波のように襲ってきたのです。チェロソナタOp.40や、24の前奏曲とフーガOp.87も味わい深いですよ。
 作曲家のサインを集めているのですが、このショスタコーヴィチの最後の交響曲15番の楽譜と、レコードにイギリス大使宛にサインがしてあるものを持っています。しかもこのレコードは、息子のマキシムショスタコーヴィチ(※18)が演奏したレコードです。さぞかし自慢であったことは容易に想像できます。その他クラシックでは、ルーハリソン(※19)など現代作曲家もお気に入りです。東洋と西洋が入り混じった音楽で、ガムラン音楽(※20)で有名です。彼は2003年にアメリカのデニーズで亡くなっており、陽気な音楽の中に、深遠な思いが見え隠れします。Varied Trio第一楽章や、Suite for Violin with American Gamelan が好きです。
 アニメーションは昔から大好きでした。滝高校時代に、視聴覚教室でNHKから借りてきたビデオ(多分)で、『未来少年コナン』の上映会を開催しました。大学時代には、『セロ弾きのゴーシュ』の上映会を東別院会館で開催し、アニメーターの才田俊次さんや村田耕一さん、背景の椋尾篁さんをお呼びして舞台挨拶をしていただいたことがあります。『赤毛のアン』や『ペリーヌ物語』の作画監督をされていた櫻井美知代さんも大好きで、学生時代にお会いしたことがあるのですが、つい最近、再会を果たすことができました。感激の再会でした。
 児童画にも興味を持っていて、鈴木寿雄さんや林義雄さんなど昔の絵が好きで、昔の絵本の原画を集めたりしています。NHKで放映されていた『こんなこいるかな』の作者である有賀忍さんの絵も好きで、最近縁あってお会いすることができました。そこで、2026年11月に主幹させていただきます第68回日本小児血液・がん学会のポスターデザインをお願いしたところ、快く承諾していただきました。
 とにかく、多趣味人です。こんなお話しでしたら、一晩中お話ししていられます。

有賀忍さんデザインのポスター(2026.11. 横浜で小児血液・がん学会学術集会を主幹)
松本公一作 ・2023年日本血液学会のポスター

座右の銘は。
「エンドポイントを自分においてはならない」 でしょうか。
人間、人生の目的を「自分が偉くなること」においてはいけないと思うのです。実るほど頭を垂れる稲穂かなという言葉のように実直に生きる。まず、何をしたいか、どれだけ人のために役立つかということを考える。小児がんの仕事でしたら、どれだけ小児がんの患者さんに寄り添うことができるのか、小児がんの子どもたちが将来にわたって安心して暮らせるようになるにはどうしたら良いのかを、常に考えることが重要なのです。医師の仕事をしていて、私たちは「治す」のではなく、患者さんが治っていくことを助けるに過ぎないと感じることが多くあります。自分をよく見せようとし、医師として偉くなっていくことを目標としてはならない。それを目的としてもダメだということです。自分がどれだけ偉くなるのではなく、他人のためにどれだけ役に立てるかを考えるのです。

もう一つ、大切な言葉を忘れていました。
「一念一念と重ねて一生なり」 です。
これは、佐賀藩の山本常朝が記した『葉隠』(※21)の一節です。今を懸命に生きることが、望ましい未来につながるということです。小児がんまごころ機構の初代理事長であった古川貞二郎先生が、座右の銘としていらっしゃった言葉でもあります。古川先生は、村山内閣から小泉内閣にかけて内閣官房副長官を務められた厚生官僚の先生です。小児がん医療にとてもご理解があり、小児がんの長期フォローアップの永続的な仕組みを作りましょうということで、よく古川先生の事務所で意見交換会をしたものでした。私たちを叱咤激励していただいていましたが、残念ながら、2022年9月に急逝されました。その熱い思いと人生が、『霞が関半生記』や『私の履歴書』に表現されています。古川先生の座右の銘をお借りするのはおこがましいのですが、こういう思いを持ち続けることは私の人生で大きなものになっているのです。

滝学園の在校生、卒業生(二十歳代の若手)に対し、今後の進路を決めていくうえで、さらには、生きていくうえでの助言がありましたら。
 ありきたりですが、人と人とのつながりを大切にしましょう。小児がんの仕事をしていると、本当に色々な人に支えられていることを肌で感じます。レモネードスタンドで、小学生の子どもたちから励まされることもあります。先ほども紹介させていただきましたが、Live Empower Childrenという音楽の力で小児がんを応援しようという取り組みもあります。ピアニストの西村由紀江さんも毎年、小児がんチャリティコンサートを開催してくれます。毎年9月にはゴールドセプテンバー(※22)ということで、出雲大社などの神社仏閣やスカイツリー、姫路城、松本城や大阪城、広島城、小倉城など全国160ヶ所以上が金色に輝きます。ゴールドは、小児がん患者・経験者、医療者の未来を照らすという意味と、子どもは金のように大切だということで、小児がんのシンボルカラーになっています。私は、小児がん研究グループ(JCCG)の企画広報委員長として、2021年当初からこの世界的な小児がん啓発活動に関わっています。こういった活動は人と人とのつながりの中で成り立っていくことをつくづく感じています。
 同級生とのつながりも大切にしてください。特に滝での同級生は、多感な6年間を一緒に過ごした関係ですから、何十年経っていてもすぐに昔の自分たちに戻れるという貴重な関係です。かけがえのない財産であるのは間違いありません。また、自分の職業と関係のない仲間、つながりもぜひ大切にしてください。違った角度、違った方向から意見を言ってもらえる仲間は本当に貴重です。「報恩感謝」(※23)、当時はあまりピンときませんでしたが、人生の基本だと思います。
 進路に関しては、そのときに必ず必要とされるものがあるはずですので、アンテナをきちんと張って自分の興味に素直であることが良いと思います。すべてのことは偶然には起こらず、何か意味のあることだと思っていますので、その意味を考えながら進路を選択してください。

※1 神経芽腫
神経の細胞にできる「がん」。神経芽腫は、小児期にできる固形腫瘍の中で白血病、脳腫瘍についで多い病気である。特に、5歳以下のお子さんの発症率が高いとされている。
神経芽腫の細胞は、腎臓の上にある「副腎」という臓器にできることが多いので、お腹が張ってくることがある。もしくは胸部や腹部の背骨のすぐ前にある「交感神経幹」という場所にできることもあり、近くにある脊髄を圧迫することで、足などの麻痺がでることもある。

※2 フローサイトメトリー
フローサイトメトリー(英:Flow Cytometry, FCM)は、細胞や微細な粒子を流体中に分散させ、レーザー光を用いて個々の粒子を光学的に分析する手法。この技術は、細胞のサイズ、内部構造、表面および内部の分子の発現を単一細胞レベルで解析することができる。特に、血液学、免疫学などの分野で広く利用され、血球細胞の表面マーカーの解析に用いられる。

※3 リンパ球(英: lymphocyte)
脊椎動物の免疫系における白血球のサブタイプの一つである。リンパ球にはナチュラルキラー細胞(NK細胞とも、自然免疫、獲得免疫の細胞性免疫、細胞傷害性において機能する)、T細胞(自然免疫、獲得免疫の液性免疫、細胞性免疫、細胞傷害性において機能する)、B細胞(獲得免疫の液性免疫、抗体産生を担う)がある。これらはリンパ中で見られる主要な細胞種であり、そこからリンパ球と呼ばれる。

※4 接着分子
血管内皮細胞や白血球の細胞表面に発現し、これら細胞間の接触による相互作用に関与する蛋白質の総称であり、特に炎症部位などで認められる白血球の血管内皮下への遊走に、重要な役割を果たしている。
細胞接着分子はこうした結合を成立させるための接着および細胞間の相互作用に関与し、細胞の組織への分化や個体形成および維持、ならびに再生などにかかわっている。 また、接着することによって外部情報をとらえて細胞に伝える役割も果たし、免疫応答、炎症反応や癌(がん)の転移あるいはウイルス感染などにも関与している。

※5 骨肉腫
骨に発生する悪性腫瘍(がん)の中で最も頻度の高い代表的ながん。10歳代の思春期、すなわち中学生や高校生くらいの年齢に発生しやすい病気だが、約3割は40歳以上で発生する。日本国内でこの病気にかかる人は1年間に200人くらいであり、がんの中では非常にまれな部類に入る。患者の約6割は膝の上下部分(大腿骨と脛骨の膝関節側)に腫瘍が発生し、次いで、上腕骨の肩に近い部分、大腿骨の股関節に近い部分など、骨端線と呼ばれる骨が速く成長する部位(骨幹端部こつかんたんぶ)に発生する。

※6 骨髄移植(こつずいいしょく、英: Bone marrow transplantation, BMT)
白血病や再生不良性貧血などの血液難病の患者に、提供者(ドナー)の正常な骨髄細胞を静脈内に注入して移植する治療である。骨髄移植に用いられる造血幹細胞は、末梢血からの回収自家末梢血幹細胞移植(PBSCT)や臍帯血(さいたいけつ)など、骨髄以外にも入手方法が多様化しているので、造血幹細胞移植と総称される。免疫不全疾患、遺伝子異常による代謝異常疾患の患者の一部にも適応される。

※7 臍帯血(さいたいけつ)移植
新生児のへその緒から造血幹細胞を含んだ血液を採取し、それを移植する方法。1980年代前半に臍帯血に造血幹細胞が含まれていることがわかり、1988年には実際に臍帯血を使った移植手術が行われた。この臍帯血を用いて移植を行い、白血病や再生不良性貧血などの血液の病気や、免疫不全や遺伝疾患などの治療に使うことを「臍帯血移植」という。

※8 日本骨髄バンク
骨髄(こつずい)バンクは、「骨髄移植」などの造血幹細胞移植が必要な患者さんと、それを提供するドナーをつなぐ公的事業である。日本骨髄バンクは1992年にドナーと患者の登録を開始し、1993年1月には初の骨髄移植をあっせん。2020年12月には移植2万5000例に到達した。

※9 東海骨髄バンク
1988年に大谷貴子さんらの尽力により、「あいちの会」の前身である「名古屋骨髄献血希望者を募る会」が発足した。全国で初めて骨髄ドナーの募集を開始し、全国骨髄バンクが発足する前に、55例の非血縁者間骨髄移植をおこなった。1994年に「骨髄バンクを支援する愛知の会」と改名、2005年から特定非営利活動法人「あいち骨髄バンクを支援する会」となり、現在は認定NPO法人となっている。

※10 チャイルドライフスペシャリスト(Child Life Specialist:CLS)
医療環境にある子どもやその家族が抱える精神的負担を軽減し、主体的に医療体験に取り組めるよう心理社会的支援を行う専門職のこと。CLSの資格は国際資格であり、現在のところ、日本では国家資格として認められていない。療養支援を担当する同様の職種として、子ども療養支援士、Hospital Play Specialist 等がある。

※11 ファシリティドッグ(facility dogs)
臨床経験のある看護師のハンドラーとペアになり、特定の病院や施設に医療チームの一員として常勤する、専門的に訓練された犬のこと。活動する施設は、特別なケアを必要とする人々に特定のサービスを提供する建物や場所で、医療施設、特別支援学級などの教育機関、裁判所など、多岐にわたる。

※12 ホジキンリンパ腫
リンパ球ががん化して、リンパ節で増える悪性リンパ腫の一つ。小児では年間10例程度しか発症しないが、20歳代と50~60歳代では多く1500例程度の発症である。頸部のリンパ節にできることが多く、隣接したリンパ節へと連続して広がりやすい特徴がある。理由不明の発熱、体重減少、寝汗などの全身症状がみられることもある。

※13  GVHD
GVHDとは(英:graft versus host disease)の略で、同種造血幹細胞移植後に起こる合併症のひとつ。
移植時に混入したドナーのリンパ球や移植した造血幹細胞から分化・成熟したリンパ球が、移植を受けた患者さんの身体を異物とみなし、攻撃することで起きる合併症である。急性GVHDは、移植後早い時期に、皮疹などの皮膚症状が起こる。また、下痢などの消化器症状や、肝臓の働きが低下して黄疸などがみられる。慢性GVHDは、関節の拘縮や皮膚の硬化、唾液、涙の減少、肝機能、呼吸機能の低下などが認められる。

※14 関節拘縮(こうしゅく)(Contracture)
関節の不動(動かないこと)により、線維化(皮膚、骨格筋、靭帯、関節包などの軟部組織が壊死して糸の様な組織に置き換わり、伸び縮み能力が失われる)することで 関節可動域(関節が運動することができる角度)減少が引き起こされ固定すること。

※15 シノーポリ
ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli、1946年11月2日 – 2001年4月20日)は、イタリアの指揮者・作曲家。イタリア・ヴェネツィア生まれ。パドヴァ大学で心理学と精神医学を学ぶと同時に、ベネデット・マルチェッロ音楽院で作曲を専攻する。ベルリンでヴェルディの歌劇「アイーダ」第3幕を指揮中に心筋梗塞で倒れ、そのまま死亡した。
https://bungeikan.japanpen.or.jp/1211/

※16 マーラー
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日 – 1911年5月18日)は、主にオーストリアのウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。

※17 ショスタコーヴィチ
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(Dmitri Dmitriyevich Shostakovich, 1906年9月25日 – 1975年8月9日)は、ソビエト連邦時代の作曲家。交響曲や弦楽四重奏曲が有名である。シベリウス、プロコフィエフと共に、マーラー以降の最大の交響曲作曲家としての評価が確立され、20世紀最大の作曲家の一人である。ショスタコーヴィチの音楽には暗く重い雰囲気のものが多いが、その一方でポピュラー音楽も愛し、ジャズ風の軽妙な作品も少なからず残している。

※18 マキシム ショスタコーヴィチ
マキシム・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(Maxim Dmitrievich Shostakovich, 1938年5月10日 – )は、ロシア出身の指揮者。当初ピアニストとして、次いで指揮者として活動を始め、父親の交響曲第15番の初演(1972)を指揮。ピアノをモスクワ音楽院とレニングラード音楽院で学ぶ。音楽院において指揮に興味を持つようになり、卒業後、ソビエト放送交響楽団の首席指揮者に就任した。1981年にアメリカ合衆国に脱出した。

※19 ルー・ハリソン
ルー・シルヴァー・ハリソン (英:Lou Silver Harrison、1917年5月14日 – 2003年2月2日)は、アメリカの現代音楽の作曲家。オレゴン州ポートランド出身。世界中の民俗音楽を参照して出来上がる、一種のワールドミュージックに近い性質を持った作曲活動を行った。ジョン・ケージとも共同作曲をするほど仲が良かったものの、ハリソンの楽天的な性格がケージの厭世的な性格と合わなくなり、最終的には決裂する。

※20 ガムラン
ガムラン(インドネシア語: gamelan)は、東南アジアのインドネシアで行われている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の民族音楽の総称である。 広義では、インドネシア周辺のマレーシア、フィリピン南部スールー諸島などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。
2021年12月15日、インドネシアのガムランは国連教育科学文化機関(UNESCO)無形文化遺産の代表リストに登録された。

※21 葉隠(はがくれ)
江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基が筆録しまとめた。全11巻。葉可久礼とも。『葉隠聞書』ともいう。
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。

※22 ゴールドセプテンバー
毎年9月に各国政府や国際機関などを含む小児がんの支援者たちが、小児がんの子どもたちへの支援を表明する。世界各地の名所やシンボルをゴールドにライトアップしたり、ゴールドのリボンを掲げることで支援を表明し、様々なチャリティーイベントも同時開催されていて、日本では、2021年からキャンペーンに初参加。小児がんの「アウェアネスリボン(英:Awareness ribbon)」カラーはゴールドである。乳がんの啓発カラー・ピンクのように、小児がんのゴールドも知ってもらいたいという願いがある。

※23 「報恩感謝」
明治から⼤正にかけて実業家として成功を収めた滝信四郎は、滝学園設立に際し、「⾃分を育んでくれた故郷から将来⼤いに活躍するであろう⻘少年を育てることこそ最⼤の恩返しである」と考え、「質実剛健」「勤勉⼒⾏」「報恩感謝」を建学の精神として滝学園を設⽴した。創⽴者のこの精神は、教育理念と教育⽬標に発展継続している。

[プロフィール]
松本 公一(まつもと きみかず)
国立研究開発法人国立成育医療研究センター 小児がんセンター長
日本小児がん研究グループ(JCCG)理事・企画広報委員長
一般社団法人Empower Children 理事
認定NPO法人 ハートリンクワーキングプロジェクト 理事長
The 16th SIOP ASIA(2024) 大会長

1963年1月 愛知県西春日井郡西枇杷島 生まれ
1987年3月 名古屋大学医学部卒業
1987年4月 名古屋第一赤十字病院 小児科医師
1994年10月 米国フレッドハッチンソンキャンサーリサーチセンターに留学
1998年4月 トヨタ記念病院 小児科医長、副部長
2002年3月 名古屋大学 論文医学博士号取得
2002年4月 名古屋第一赤十字病院 小児科医師、副部長、部長
2013年6月 国立研究開発法人国立成育医療研究センター 小児がんセンター センター長(現任)

[専門分野]
小児血液・腫瘍学、特に神経芽種、造血細胞移植、小児がん医療提供体制

[資格・学位]
医学博士
日本小児科学会専門医
日本血液学会 血液専門医、指導医
日本小児血液・がん学会 小児血液・がん専門医、指導医
日本造血・免疫細胞療法学会 認定医

※プロフィールは、取材日(2025年10月15日)時点の内容を記載しています。

★主な著書
『明日から使える!小児がん治療のオキテ』-有害事象マネジメントいろいろ-
責任編集:松本公一 編集:富澤大輔、石黒精
出版社:診断と治療社(2022年4月)
ISBN-13: 978-4787825100

『もっと知ってほしい小児がんのこと』
監修:松本公一
出版社:NPO法人キャンサーネットジャパン(2022年5月)

『はじめて学ぶ小児血液・腫瘍疾患』改訂第2版 -To Do&Not To Doで理解する-
編集:石黒精、加藤元博、松本公一
出版社:診断と治療社(2025年10月)
ISBN-13: 978-4787827265